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聖典は万人に読まれ、領解されてこそ、万人の法財となり、光となります
即如上人
2019年1月
前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ
『教行信証』化巻
ティッシュは、1枚取ると次のティッシュが自然に出る。これはおり方に秘密があり、紙を互いに密着させることによって、摩擦によって次の紙が引き出されるしくみになっているそうだ。さきのティッシュがあとのティッシュを引っ張り、あとのティッシュはさきのティッシュに引っ張られる。
お浄土へと先だたれた方が、後に残されたものを導いてくださり、後に残されたものは先立たれた方を訪ねていくのである。そういうしくみになっている。これがずっと今までの相続の理。休むことなかれ、止まることなかれと親鸞聖人は願われた。
2019年2月
ああ、弘誓の強縁
『教行信証』総序
日常生活の中で、「ああ、」と感嘆することがあるだろうか。風呂でもめったに言わない。よっぽど疲れているときに、冷え切ったからだを湯につけたとき、湯のぬくもりが体に染み込むのを感じることがある。「ああ、」とは、出すのではなく、入ってくる感じがする。感嘆のことばは、意識的に発するものではなく、自然とこぼれるものである。その様相は、私が主体ではなく、私をそうさせた何かが主体となる。
浄土真宗の信心とは、自らの意思がまったく関与しない。仏力(他力)によって私の上に開発せしめられるのである。アミダさまが至りとどいた感動が「ああ、」と親鸞聖人の口からこぼれでている。
2019年3月
仏心とは大慈悲これなり
無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す
『仏説観無量寿経』
永遠に衰えることなく持続し、たしかなものの見方ですべてのいのちを平等に慈しんでくださる。人のよろこびを我がよろこびとし、人の悲しみを我が悲しみとする。これを仏という。阿弥陀さまは誓われました。あなたが救われないと、私も救われないのです。と。親が子供に愛情を注ぐ姿に阿弥陀さまのおこころを思う。しかし、人間の慈悲はどこまでいっても自己中心的で愚かで切なく、そして儚い。どうか本物の親に出遇ってほしい。阿弥陀さまは大慈悲の親さまである。
「ばあちゃん、なぜ僕にいつもお菓子をくれるの」
「あんたのよろこぶ顔がみたいから」
「あんたがよろこぶ顔をみると、ばあちゃんまでうれしくなるよ」
そう言ってくれたばあちゃんも、今は立派な仏さま。南無阿弥陀仏と、今ここに。
2019年4月
五劫これを思惟して摂受す
重ねて誓ふらくは名声十方に聞こえんと。
『教行信証』「正信偈」
一辺が四十里の立方体の石を百年に一度薄い布で払って、その石が磨滅しても劫はつきないという。とてつもない長い時間、私を救うためにお考えくださったお方がおられた。アミダさまである。迷いを迷いとも気づかないところに、私の迷いの深さがある。アミダさまの悩みの深さは、そのまま私の迷いの深さである。わからない私に、わかるすがたになってあらわれてくださったのが南無阿弥陀仏。これは仏さまのお慈悲である。
自分の母親を見て、この人は本当に私の母親だろうかと疑ったことはあるか。疑う余地のない心を母から与えられたのである。母ははたらいたではないか。物言わぬ我が子に、礼すらできない我が子に。見返りを一切求めることなく、この子がかわいいと自らの名を告げながら。「おかあさんですよ」の一声は、母の親心でできあがっている。母は、「いつでもどこでも一緒です」、「みてますよ、しっていますよ」、「あなたをまもってみせますよ」と子を抱き、子をおぶり、子と寝たのである。母の脳裏には私の一瞬一瞬が克明に刻み込まれているに違いない。私には知る由もないことですが、もし知る術があるとするならば、それはただ聞くのみである。
2019年5月
善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問へり。
『仏説無量寿経』
弟子の阿難尊者が釈尊のお姿がいつもと違うことにお気づきになる。釈尊は喜びに満ちあふれ、清らかで輝かしいお顔をされていた。「なぜお釈迦さまはそのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか」そこで釈尊は阿難にたいして仰せになった。「阿難よ、天人がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか」阿難尊者は「天人が来てそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしました」とお答えになる。そこで釈尊は仰せになった。「よろしい、阿難よ、そなたの問いはたいへん結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである」いよいよ釈尊が無量寿経を説かれる。阿難尊者の問いのおかげで阿弥陀さまのお話が始まったのである。
仏法を聞くに、問いは大切である。よい問いがないとよい答えは導かれない。またよい問いもよい指導者に恵まれなければ、よい答えに出遇えない。阿弥陀さまのお救いの法は、私のもつ根源的な苦悩の問題に対してあたえられた答えなのである。池上彰さんがTVで「いい質問ですね~」とにっこり微笑むのをみて、いつも無量寿経を思い出す。
2019年6月
一宗の繁昌と申は、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候。一人なりとも人の信を取が一宗の繁昌に候。
『蓮如上人御一代記聞書』
人間の決心はあてにならない。どんなにかたい決心でも、人間の決心はあてにならない。だから代わって阿弥陀さまが決心してくださった、必ず救うと決心してくださった。阿弥陀さまは我々の心と行動は一切採用なさらなかった。私に変われとおっしゃったのではない。あなたのために私が変わろうとおっしゃった。あなたをすくえる仏になったぞと、朝な夕なにこだまする。それがナモアミダブツである。
浄土真宗の繁盛というのは、たくさんの人が集まって、わいわいさわいでいることではなくて、一人でも如来の御慈悲を聞いてよろこぶ信心の行者が育っていることをいう。その一人とは私のことでありました。他人のことではありませんでした。ナモアミダブツ。大繁盛。大繁盛。
2019年7月
本師源空は、仏教をあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。真宗の教証、片州に興す。
『教行信証』「正信偈」
仏教はアジアの極東にある粟粒ほどの島国で花開いた。阿弥陀如来が源空(法然)聖人となってあらわれて、浄土真宗をお伝えくださった。源空聖人のお出ましをかのごとく味わわれた親鸞聖人は、仏教を遠いかなたの宗教ではなく、いまここ(わたしのところ)に受け取っておられたに違いない。
お寺が近いか遠いか、それは距離の問題ではなく心の問題です。数百メートルの距離が一生かかっても越えられない方もいれば、数百キロの距離をわずか数日で越えていく方もおられます。お得度をされた親鸞聖人が法然聖人にたどり着くのに、二十年の年月を要しました。このお二人が出会ってくださらなければ、浄土真宗はありませんでした。
2019年8月
なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。
『歎異抄』第九条
仏教の最終目標は「仏に成る」ことです。仏になる道を説いた経典はたくさんあります。しかし、「仏にする」と説かれた経典はたった3つしかありません。それが浄土三部経です。仏になる生き方を説いた教えではなく、あなたを仏にするというお救いの法です。浄土真宗は、私がなにをすべきかということよりも、阿弥陀さまがなにをしてくださったのかを大切にいたします。
お浄土とは、キリスト教の天国、神道の黄泉の国などと並べて語ってよい世界ではありません。私は阿弥陀さまに抱かれている。阿弥陀さまに抱かれているものが、いのち終えて参っていく世界をお浄土というのです。もう抱かれているのだから、覚悟や準備はいりません。まかせておくれとおっしゃるから不安や迷いもありません。仰せのままにお浄土へ参るものを信心の行者というのです。これを仏力といいます。
2019年9月
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。
『御文章』
浄土真宗のご門徒は、伝統的に『御文章』によって育てられてきた。讃岐の庄松同行が御法座を開き、法座の終わりに『御文章』の拝読をしようと、二帖目を取り出し「聖人一流はありがたい」と言った。寄合の人々は「聖人一流は五帖目であります」と言ったが、庄松は「一帖目より五帖目までみな聖人一流の『御文章』でありがたいのじゃ」と言われたのである。五帖目に「聖人一流の御勧化のおもむきは」と書き出しているが、『御文章』はすべて聖人一流の教えが書かれたものであって、それ以外のものはない。いや、そればかりではなく、真宗の一切のお聖教はもちろん、釈迦八万四千の法門はみな聖人一流の御勧化なのである。この外に仏法はない。だからありがたいのである。
火事に遭ったらまず『御文章』持って逃げよと言う。これは蓮如上人が届けてくださった、私への手紙である。千のものを百に、百のものを十に、十のものを一につづめておっしゃった至極の一言である。親鸞聖人のみ教えは、信心が根本である。法話の際は、まず『御文章』を開くことから始まり、最後に「肝要は御文章」と言って、『御文章』を拝読して話をしめくくるのが作法となっている。
2019年10月
如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。
『教行信証』信巻
「お母さん、こんど来るときはお母さんが喜ぶお土産を買ってくるよ。何がいい?」
「お母さんは生活に不自由はしていないし、身の回りのものは何でもあるからお土産などいりませんよ。もし私を気遣ってくれるのならば、どうかあなたが元気でいてちょうだい、、そして帰ってきたときには、やさしい言葉をかけておくれ。」
やさしい言葉なら、みやげ物屋で買わなくていいのです。お母さんは、息子のやさしい言葉を聞いただけで、何千円もするおみやげをもらうよりうれしく、胸がいっぱいになるのです。相手のこころを受け取ることで、人はこんなにもしあわせになれるのです。どうか、なもあみだぶつと称えておくれ、あなたがお念仏してくれるだけで私は胸がいっぱいになるのですよと、アミダさまはいつもお慈悲で満ちています。お慈悲の父母となってくださいました。お念仏するものは、みな如来さまの子なのです。
2019年11月
この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
『歎異抄』
ある人問うていはく、往生安堵と思いを定めたるに、時々大悲の御尊顔を拝し奉るに、平生懈怠申して居ることが恥ずかしくて、実に心が苦しくあります。これはいかが心得て宜しくありますか。
和上答えていはく、病気の全快せしは医師のお陰なり、報酬(お礼)をなすべきは病人の義務なり。報酬を怠りたとて病気は再発はせぬ。されども半年も一年も報酬をせずにいて、突然途中などでその医師に出逢えば、心が苦しくて消え失せとう思うならん。大病を治してくれた医者なれば、逢えば嬉しいはずなるに、心が苦しいはなぜであるか。報酬がすまぬからである。今もその通り、よくよく味わうべし。
『七里和上 真宗安心示談』
2019年12月
奉請弥陀如来入道場 散華楽
奉請釈迦如来入道場 散華楽
奉請十方如来入道場 散華楽
『法事讃』 三奉請
阿弥陀さま、どうぞこの道場にお入りください。
お釈迦さま、どうぞこの道場にお入りください。
十方の仏さまがた、どうぞこの道場にお入りください。
(阿弥陀さまがこの道場にお入りくださる)
お経があがり、法話があって、二時間ばかりの法座がいよいよ終わりをむかえると、一人、また一人と参詣衆は本堂を出ていく。そしてお香の残り香が漂う中、賑やかだった本堂がいつもの静けさを取り戻す。だれもいなくなった本堂に、ひとりぽつんと残されたのは阿弥陀さま。呼びっぱなし。入りっぱなし。「お経をごにょごにょあげて、布教使がへたくそな説教をして、ありがたいような気になって帰っていったか。」「さて、住職も帰ったし、そろそろ私もおいとましようか。」人気のなくなった本堂を、最後にそっと阿弥陀さまが出ていかれる。浄土真宗の法事に入仏式はあっても退仏式はない。