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​こういう人がいましたよ

お念仏よろこんだ人の

​おはなし

​みょうこうにん

妙好人

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糸島の漁師

​ご門徒のNさん

「父の笑顔は家族の支え」

​吾智網に鯛の養殖、イカ釣り。父はいつでも何をするにも一生懸命でした。七十歳頃に始めたカキ小屋は、父のぬくもりを感じる場所。手作りのテーブルと椅子、そして新鮮な海の幸がお客様を迎えていました。父のファンも多くよく作業場へ足を運んでくださいました。お客様がいらっしゃると「サービスしとくばい!」と笑顔で大盤振る舞い。朝早くから夜遅くまで頑張って、疲れなど見せることはありませんでした。ここ二年ほど病気がちでお店に顔を出すのは難しかったものの、いつも気にかけ「二十五日までは…」とリニューアルオープンするのを楽しみにしていました。門出を見せてあげられなかったのが残念ですが、これからは空の上で見守っていてくれるでしょう。私達が大好きなあの笑顔で…。

~子供一同

このような言葉で見送られたご門徒のNさん。人にぬくもりを与えられることを、人はやさしさというのであろう。有名な歌に「人は悲しみが多いほど、人には優しく出来るのだから」というフレーズがある。Nさんのもつ大きな優しさに、今まで背負ってきたものの大きさを感じる。やさしさとは、強さなのである。その強さはどこから来るのか。それはNさん自身がとてつもない大きなものに支えられていたからではないか。阿弥陀さまである。阿弥陀さまを聞いた人は強い。そして柔らかい。

ある日、病院帰りにお寺に立ち寄ってくださった。どうやら深刻な病状のようである。「あとのことは、よろしくたのんます」、そう私に言い残してお浄土へ往ったNさん。お葬儀を勤め終えた今、遺された家族がみな阿弥陀さまを聞き、同じお浄土へと歩む人生となるよう願うばかりである。Nさんのカキ小屋は、今日もたくさんのお客さんで活気に満ち溢れている。

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​息子さんを見送ったお母さん

​ご門徒のMさん

「息子の歩みを辿り」

​お天道様が足早に西の海へ沈みゆく夕刻の五時、隣のお寺から梵鐘の音が響きます。夫が務めていた役目を引き継ぎ、毎日決まった時間に鐘をついていた長男の姿を思い出しております。建築塗装の仕事に励み、朝からずっと働いていた頃はなかなかなその時間には帰れなかったものです。しかし家で過ごす間は一日も欠かさず立派に務めをはたしておりました。

仕事終わりにはお酒を一杯。好きなお刺身をあてにゆっくりと晩酌を楽しんでいた日々がもう戻らないと思えば寂しさが募ります。器用な方ではありませんでしたが、共に暮らす私を気遣ってくれた息子でした。日々の買い物や草取りなど、歳をかさねて困難になっていく私に代わってこなしてくれた優しさが今なお身にしみております。患ってしまったことは悔やまれますが、これからは如来さまのお膝元で安らかな時を過ごしてほしいと願っています。

長男〇〇は、令和二年〇月〇日、満六十七歳にて生涯をとじました。笑顔や涙、全てを抱いた穏やかな心でまぶたをとじ、歩んできた道を感慨深く振り返っているのでしょう。

たくさんの方と出会いふれあう中で、色褪せぬ思い出を紡いできた人生。ご縁を結び支えてくださった全ての方々へ心より感謝申し上げます。

本日はご多用中ご会葬頂き、誠にありがとうございました。略儀ながら書中をもちまして熱くお礼申し上げます。

会葬御礼より

 

ご高齢の母の心情を察してか、弔問の方々の言葉かけは少ない。いや、かける言葉がないというのが本当かもしれない。しかし、シーンと静まり返ったお葬儀ではなかった。ところどころでお念仏が聞こえるのである。お葬儀は導師だけで勤めるのではない。皆で勤めるのだ。よくお寺に参る方はお念仏がでる。〇〇さんのお念仏だな、△△さんのお念仏だなと声でわかる。ありがたい…。安楽上人の辞世の句、「今はただ云ふ言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏のみ名のほかには」がふと頭に浮かぶ。この「南無阿弥陀仏」は如来さまの声である。「我にまかせよ、必ず救う」の声である。

出棺の際、前住職が声をかける。「今頃、先に行ったお父さんとお浄土で飲んどるよ」と。「ありがとうございます」とうなずいておられた。火屋勤行をつとめ、いよいよ火葬である。私はお棺の窓から覗き込んで「お浄土でまた会いましょう」と声をかけた。お母さんが最後の声掛けをする。「如来さまに連れていってもらいないさいよ。」何度も声をかけた。「かあちゃんもすぐ行くから。待っとってよ、待っとってよ…」何度も何度も声をかけた。母の言葉に胸が熱くなった。浄土真宗の教えを聞いた人ならば当たり前のことのようだが、大事な場面でご法義にかなった言葉がスッと出るのは案外難しいことだ。浄土真宗だからお浄土という言葉を使うのではない。お浄土しかありえないのが浄土真宗なのである。お浄土は帰依処である。また会えるのがお浄土である。「また会わせてみせる」という阿弥陀さまの願いで出来上がった世界である。

妙好人とは奇抜なエピソードを残したり、人に気付きを与えてくれるような強烈な言葉をもっている方も素晴らしいが、当たり前のことを当たり前に言える方を私は推したい。「お浄土で会いましょう、私も必ずいくからね。」それがありがたいのです。お母さん、お浄土があってよかったですね。

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